6位: デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
評価
|
本当の入門の入門
|
本邦初のデイヴィドソン入門書で、基本的にかなりわかりやすいと思います。
僕は理解はともかく大陸系の哲学書は結構読んだのですが、英米系の哲学書は殆ど読んでないと言っていいくらいの人間です。
そんな人間が読んでもすんなりと理解出来るように平易に書かれています。
今、別のデイヴィトソン関係の本を読んでいますが、
この本に書かれてあるのはデイヴィドソンの思想の一部であって全体ではないので、詳しく知りたいという人には向いてないと思います。
ただ導入としての役割はこの本は十分に果たしていると思うので、現代の言語哲学に興味がある人は読んでみてください。
詳細は以下
本書は大きく分けて三つ分けられます。
・真理条件的意味論
・マラプロピズム
・言語非存在論
まず真理条件的意味論について、本書に出ている例ですが『雨が降っている』という言葉があったとします。
今、我々が“雨”という単語の意味を知らなかったとしても、事実としてその場で雨が降っていれば、“雨”という単語の意味を知らなかったとして事実から類推してその意味を大体理解することが出来ます。
デイヴィドソンは言語によるコミュニケーションにおいて第一義的に必要なのは意味を知っている。
ということではなくて、言ってることと事実との整合性から意味を知ることが出来ることが大事だと言っています。
そして、このような解釈に前提となるのは相手の言っていることが事実であると信じることです。
何故なら、もし雨が降ってないのに『雨が降っている』と相手が言った場合には間違えた意味を掴まされることになります。
しかし、デイヴィドソンは本当に正しい意味を知りたければウソの情報の経験も必要だと言います。
つまり、相手の言っていることを理解したいのであれば、否応なしに相手の言っていることがまず事実だとして信用しなくてはいけない。
彼はこれを寛容の理論と呼ぶようです。
マラプロピズムについて
マラプロピズムとは言い間違いのことです。
家族や親しい友人と話しているときに少し言い間違いをしても、彼等は何の苦労もなくその言葉を理解してくれます。
逆にあんまり親しくない人や初見の人と話しているときに言い間違いをしたら、理解してくれません。
デイヴィドソンは「言語」そのものを知っていても、その人のことを知っていないと「言語」を理解していても、その人の言葉の意味を理解できないといいます。
例を挙げれば江戸っ子の人が『コーシー』と言った場合のときを考えます。
江戸っ子はヒと発音することが出来ず、ヒをシと発音するということを知っていれば、今の言葉はすぐに『コーヒー』と変換されます。
逆にこの事実を知らなければ、コーヒーという単語の意味を知っていても『コーシー』が何指すかわかりません。
つまり、「言語」の知識があっても十分な理解が得られないとデイヴィドソンは言うわけです。
これらの理論から「言語」非存在論が導かれます。
言葉の正しい用法というものは存在しない、言葉は時と場合、人に多くを依存し、それらによってかなり変わってくるという結論にたどり着きます。
これが「言語」非存在論です。
長く、かなり粗い説明(しかも理解が正しいか不明ですwww)でしたが、大きくわけて本書の内容は以上です。
また最後の方に本当に少しですが、デリダとデイヴィドソンの関連についても書かれています。
|
| 他のコメントも読む
|
|
|